2014年10月30日木曜日

茶に合わせて急須を選ぶ。


思うところあって、常滑焼の急須を買った。
主に個人的に抱いている「お茶とそれを取り巻くもやもや」と向き合うためだ。

日本茶に興味を持つきっかけとなったのは、宇治の玉露で、
それを淹れるのに必要な「宝瓶」や「絞り出し」といった
持ち手のない急須にばかり目を向けていたのだが、
玉露を買い求めに訪れる京都のお茶屋さんも、
清水焼の産地にほど近い五条坂の陶器屋さんも、
「急須と言えば、常滑焼、あるいは萬古焼」という世の定説にしたがって、
二大産地の品を並べており…文字通り、避けては通れないモノなのだ。

お茶は単にノド、カラダを潤す「機能的飲料」ではなく、
ココロを満たす「情緒的飲料」だと言う人がいる。
湯を沸かし(時には湯ざましをして)、急須を使い、茶葉が開くのを待つ時間を持つことは、
実に素敵なことだと思う。確かに情緒的である。疑うことはない。

疑うとすれば、急須という道具の在り方だ。
確立されているようで、必ずしもそうでないのが、
茶葉と急須、湯呑みの組み合わせだ。

例えば、山吹色の水色を特徴とする宇治茶を愉しむなら、
湯呑みは、その水色を邪魔しない白色のものが良いように思うが、
その宇治茶を提供する京都のお茶屋さんの多くは、別段、こだわりを見せない。
急須においても然りで、煎茶にはこれ、玉露にはこれと
オススメの急須を置く店は、ほとんどと言って良いほど見かけない。

常滑焼、萬古焼のルーツは、中国の宜興の茶器、茶壺(チャフー)と言われている。
茶壺に使われる土が鉄分を多く含み、茶をまろやかにするものであったことから、
朱泥や紫泥といった(釉薬をかけない土の)品が作られるようになり、
世界の茶器の主流である「後手(あとで)」ではなく、「横手(よこで)」のものへと、
現在の(いわゆる)急須の原形を作ったのだとされている。

形状の進化と完成という意味で、常滑焼や萬古焼が果たした役割は大きい。
特に、常滑焼の急須の「ささめ」と呼ばれる目の細かな茶漉し部分や、
注ぎ口に対して直角よりわずかに内側に付ける持ち手の角度などは、
他の産地の急須にも取り入れられている。

むしろ、常滑焼や萬古焼は、影響を与え過ぎたのかもしれない。
高い技術で作られたものが、安価で提供されるようになると市場は進化を止める。
熱湯で早く出せるように改良された深蒸し茶が売れていくのにいち早く対応して、
常滑焼や萬古焼が、茶漉しにステンレスやフッ素コーティングを導入すると、
それがスタンダードとして定着してしまった感がある。

京都のお茶屋さんの多くが、作家性の高い京焼・清水焼ではなく、
普及品として機能性の高い常滑焼や萬古焼を置くのは良く分かる。
手入れの簡単なステンレス製の茶漉しが付いた品をすすめるのも、十分理解できる。
要は需要と供給のバランスなのだ。悪いことだと言うつもりなど毛頭ない。

それでもやはり、それで良いのか?と思う。

お茶を「情緒的」に愉しむためには、茶器のバリエーションの豊かさは欠かせない。
色や形といった見た目だけではなく、土や焼き方によって茶の味が変わるという
科学的データもあるのだから、それを踏まえたモノ作りと、アナウンスがあって良いはずだ。

茶業関係の人間ではないのだけれど、
「たかがお茶でしょ?そんなに沢山、急須を集めてどうするの?」
と、言われる人を少しでも減らしたいという欲がある。
それが何故だか尋ねられても、(今のところ)上手く言語化できない。
「料理に合わせて食器を選ぶように、茶に合わせて茶器を選ぶ」。
そんなことが当たり前の世の中になればと思うし、

…ということを確認するため「だけ」に、この急須を買ったわけではないし、
常滑焼や萬古焼には、一般普及品以外にも魅力的な急須があることも
紹介していこうと思うのだけれど、それはまた別の機会に。

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