2015年3月22日日曜日

茶と猫と禅と

「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と云うがこれは本当であって
「昔の偉い人はええこと云うわ~」などと感心している場合ではない。
どうもここのところ思ったようにお茶が淹れられなくなり「あれ」とか「お?」とか
独り言を云いつつ上手いこといかんので茶腹になって胃が痛い。
この現象は季節の変わり目だからに相違ない。
と、一度はそう思ったのであるが開ききった茶葉に終わりを告げられてふと思った。
「茶と猫は似ている」
こちらから強引に歩み寄っても逃げてゆくばかりでちっとも仲良くなれん。
そんなことが続くと全て嫌になって自暴自棄になり「もうええわ…」云うて無視、或いは
歩み寄りをやめると知らぬうちに猫は傍で「にゃあ」と鳴いて咽喉をごろごろと鳴らしながら
転がり、茶は黄金色に輝いて素晴らしき香気を放ちつつ舌先に甘みを広げるのではないか。
「美味いお茶を淹れよう」と意気込んで淹れた時ほど自分は失敗しているように思うのだ。
ああだこうだと頭で考えて茶葉の量を計測、同じく湯の量、温度をも計測、蒸らしは何分何秒
なんて決めて淹れてもお茶の味というのは安定することはないのであり、必ずしも「正解」が
ある訳でもない。
「好きや好きやぁ!」と云い寄ってドン引きされたり「あ、猫や!」と目をギラつかせて
駆け寄ったりしても逃げられるだけであってどうも上手いこといかんのは明白なる事実であり、
それよりも考え事をしていたり、ぼぉーっとして、或いは何気に茶を淹れている時のほうが結果が
よい気がしてならない。
それではいかんのかもしれないが、よくよく考えるに「茶」というものはそないに
片意地を張って淹れるようなものではないのだと今更ながら気付かされた。
これは「禅」に通じる事柄なのではないかと少しく思案してみる。
禅では「頭で考える」=「雑念」であるからそれを断ち切るべきとあるが、
これは「ああしてやろう」とか「こう茶を淹れてやろう」という自分勝手な分別、
そういう執着のようなものを無くすこと「断ち切る」ことが肝要なのだという教え
なのではないだろうか。
ブルース・リーもこう云っていた「考えるな感じろ」と。
どうも話が変な方向に逸れたけれども、これはきっと春が近いからかもしれない。
梅は咲いたけど桜はまだかいな。

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