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2016年3月11日金曜日

「一冷まし」はフラット

茶が好きになると欲張りになるもので全国各地の茶所で生産されている茶を淹れてみたくなる。
本来、茶を購入するには茶舗に出向いて購入したい茶(煎茶、玉露)などを淹れてもらい、味見を
してから購入するというのが常であるが、茶舗によっては試飲もなく店員が立っているだけの様なところももあり、
そういう店では茶の購入はしないほうが得策といえる。

良い茶舗というのはこちらが何も言わずともお茶を淹れてくれるものである。
と、自分は思っている。

話が横道に逸れたが、インターネットの普及により全国のお茶がクリック一つで購入できるようになって非常に便利にはなったが、やはり味見あるいは試飲も出来ないネットでの茶の購入には勇気がいる。
しかし、なかなか全国の茶所を巡って茶を購入できるほど裕福でもなければ時間もないのであり、
どうしてもネットで購入となってしまうのは仕様がないことなのかもしれない。

そこで大切になってくるのが「茶の淹れ方」なのではと自分は思う。

ネットで購入した飲んだこともなければ淹れたこともない茶を初めて「淹れる」にあたり肝要なることは
湯の「一冷まし」なのではないか。

いきなり熱湯で淹れるのは乱暴で渋みばかりが出てよくないであろうし、どんな茶かも知らずに上茶の適温である70度で淹れるのもどうかと自分は思うのであり、やはり初めて淹れるお茶の湯温は「一冷まし」で淹れるのが好ましいのではないのだろうか。

この「一冷まし」というのはその茶の持つ実力をフラットに再現できる方法なのであり、これはギターリストが使用したことのないギターアンプを使用する際に似ている。
ギターアンプはボリューム、ゲイン、トレブル、ミドル、ベース、プレゼンスなどをイコライジングして音色を決定するのであるが、使用したことのないアンプを使う際には全ての「つまみ」をオール5にしてから好みの音色にしてゆく。

このギターアンプにおけるつまみの「オール5」というのはそのアンプの特色を一番に引き出すことのできる値である。
茶も同様に湯を一冷ましすることによって、その茶の味や香りを知り、それから好みの「味」に寄せていくというのが
醍醐味なのではなかろうか。

まず沸かした湯を湯のみに注いで少し待ち、茶葉の入った急須に注いで一冷ましである。
この一冷ましで一分程を目安に淹れてみる。
「うわ、めっちゃうまいやん」と淹れられたならばその時の茶葉の量、湯量、抽出時間、季節、その時の気持ち、体調などを記憶に留めておき、また次回も同じように美味しく淹れられるようにすればよいし、または「もうちょい甘いほうがええんちゃう」と思うのならば次回はもう少し湯を冷ましてみるとか「渋みが欲しい」と感じたならば湯温を上げてみるなどの「テク」を駆使して茶を淹れてみるのも面白いし美味しい茶を楽しむ秘訣なのではないのかいなと久々にブログを更新してみたりした寒の戻りが強い夜。


2015年8月25日火曜日

夏と熱い茶と現代人

「お客様に熱いお茶を」なんて聞きますが昔は違った訳であり「何が違うねん」と云えば昔は
「冷めたお茶」をお客様に供するというのが本当の作法というか最上の「おもてなし」だったのである。

これを現代社会で実行すると上司に「大切なクライアントに冷めた茶を出すとは君は何を考えているのだ」
などと叱責、罵りなどの罵詈雑言を投げ掛けられたりするのであり、茶を供された方も「ぬるっ……」なんて
吐き捨てたように云って茶碗を置くのではないだろうか。

本来「冷めたお茶」を供されたということは、それだけ時間を掛けて淹れられたお茶ということであり
非常にありがたいことなのである。

しかしながらただ「冷ましたらええ」というものでもなく、品質の良い茶をゆっくり丁寧に淹れることが
肝要であることは云うまでもない。

高度経済成長なんてーのを経てこの日本のスピード社会と申しますか「何でも早い方がええやん」という
風潮或いは思い、若しくは「現代ならば当然」という考えが「おもてなし」というものを全くの逆さまに
してしまったのではないかと思う。

これは「ペットボトルのお茶」にも云えることであって、コンビニ、自動販売機などで手軽に買えてすぐに飲めるという利便性「スピード」並びに「お茶が売れるんやったらええやん」という茶業界の「なんやかんや」が、これまた本来の急須でお茶を淹れるという基本的な概念を現代人の頭脳から消失させる結果となり、またここでも「逆転現象」が起きているという由々しき事態にも拘らずそこに切迫感、焦りというものが微塵も感じられないというのは如何なものだろうか。

かなり脱線したのだが今回は「夏に熱いお茶ってどうよ」という問題である。

自分は暑い夏の日でも午前中などは熱いお茶を淹れることが多々あり煎茶や玉露は湯を冷まして淹れるので
問題はないのですが、ほうじ茶なんかは熱湯で淹れるので当たり前ですが夏は暑いし熱い。

「ほうじ茶」は香りを出す為に熱湯で淹れるのですが、夏場に熱湯で淹れたほうじ茶は正直に云って味も香りも
へったくれもなく「ただ熱い」ので結局はそれを少し冷まして飲む訳です。

冷ました湯で淹れてはほうじ茶の香りも出ませんし、冷たいほうじ茶を淹れたければ、まず熱湯で淹れてから
別容器に移して冷水などで荒熱を取ってから冷蔵庫へという手順になります。

「めんどくさいな」と思われるだろうが、ここでスピードと利便性だけを追い求めてはいけません。

「ほんなら熱いお茶を飲まんかったらええやん」と仰るが、夏場に冷たいものばかり体内に入れていると内臓は冷えるのであり「外は熱いけど中は冷たい」みたいな人間冷蔵庫状態は健康を害するのであって、極力は内臓を冷やさない方が良いと経験上感じているので、夏でも「熱いほうじ茶」や「雁ヶ音」などの茎茶を自分は好んで淹れるのである。

結局は何事も「頃合い」が肝要であるということで「熱過ぎる」のも「冷たすぎる」のも良ではなく
「丁度良い」温度、淹れ方や楽しみ方があるのだなぁと感じた次第である。

「はよお茶冷めへんかな~」とか呟いている自分もやはり現代の日本人なのだと痛感した
夏の終わりと台風と熱いほうじ茶。


2015年7月21日火曜日

「プレミアム」は本当にプレミアムなのか。

つい先日のことであるが、煎茶が切れたので購入せんければいかんと思いつつも
ウチの近所には気に入った茶舗は少なく、通販にするか京都に買いに出掛けるかと
思案した結果、京都に行く時間は無く、通販で購入しても2日は掛かるのであって、
どうも我慢が出来そうにない。

近所で「一番まとも」と云ったら御幣があるかもしれないが、その茶舗に行って
適当な煎茶をセレクトすればええかいなとも考えたが、どうも自分の中で納得が
いかない。

「何故に納得がいかない」のかは判然としないが、あまり好みでない煎茶に
「ええ値段」を支払いたくなかったし「適当な煎茶をセレクト」というワードが頭脳に
浮かんだことこそがどうも禍々しい。

他に淹れるお茶がない訳ではないのだから、ここは我慢と思いつつ悶々とした
心持ちで食材の買出しへ。

イ○ン・グループの所謂「スーパーマーケット」は近所に数多くあり、駐車場も完備
されているので自分は頻繁に利用する。

本当はウチから徒歩一分の「スーパー」で買い物すればいいのだけれども、ここの
従業員の客をナメた態度とレジ係りのパートのお姉さん方の茶髪率の高さ&死んだ
魚のような視線、或いは態度に自分の純情な感情は空回りして耐えることが出来ず
買い物に行く度に悔しい思いをして嗚咽が止まらない様なことがしばしばあり、嫌い
なのでわざわざ車でイ○ンまで買出しに行くのであって「ここはアメリカか……」
なんて思いつつも仕様がない。

そんなことはどうでもいいのだが、このイ○ン・グループのスーパーで
「一番摘みやぶきた煎茶」というのを発見した。

プレミアム・トップ・ヴァリューセレクトらしいこの煎茶のパッケージには
「日照時間が長く温暖な気候の鹿児島県南部のお茶です。うまみとコクあるやぶきた種の
一番茶を使用しました。甘みのある濃厚な渋みと香りが特徴です」とおもいっきり書かれている。

値段もそこそこええ値段であり100gで800円弱、ここで頭脳の天使が「購入するのは
やめなさい」と囁いたかと思いきや今度は「ユー買っちゃいなよ、我慢できねーんだろ」
なんてドS口調で悪魔が囁くもんだから抗いようもなく、買い物籠にその煎茶はスルスル
と沈んだ。

「煎茶飢餓状態」で帰宅。
早速、淹れるべくパッケージを開封するや否や驚いたのは甘くて香ばしい香り、
これはどこかで嗅いだことのある「茶」の香りである。

これまた驚いたのは茶葉も想像していた「ピンとした」ものではなく限りなく
「粉茶」に近いものであり、粉茶の中に良い茶葉が点在している状態であって
プレミアム感は無いに等しいが香りは良いと感じた。

「おいおいプレミアム・トップヴァリューセレクト!」と叫んだ声は往来にまで到達
していたに相違ないが、そんなことは気にせず自分はあうあうした。

あうあうしつつも「一番摘みやぶきた煎茶」を淹れてみる。

粉状の茶葉なので量に注意しつつ、冷ました湯を急須に注ぎ待つこと一分、
茶碗に注いで見ると黄色が少し強めの水色、香ばしく甘い香気と味、これは
所謂ところの「深蒸し煎茶」ではないか。

「一番摘みやぶきた深蒸し煎茶」ならば納得もするが「一番摘みやぶきた煎茶」
としてこれは販売されている。もやもやする。

しかし、さすが温暖で日照時間が長く肥沃な土地で育った鹿児島のお茶だけあって
美味しいのであるが、なんとなく腑に落ちないというか「もやもや感」だけが残って
またあうあうした。

ここからは単なる個人的な意見であるが、この「一番摘みやぶきた煎茶」は良い茶葉
を使用していると思われるが「茶がよく出る」ように深蒸しにしたことによって茶葉が
粉状になった或いは「粉状にした」のか、もっと穿ったものの見方をすれば、良い茶葉
の製造過程で残った「粉茶」に良い茶葉を心持ちブレンドして提供してるんちゃうんのん
とも受け取れるというか思ってしまうのが尋常なる消費者の気持ちではなかろうか。

そこまで考えへんか。

ぐだぐだと書したけれども、よくよく考えるに100g800円の茶葉をスーパーで購入する
ことに対して感じたことは「もったいないなぁ」ということ。

スーパーで売っているお茶が悪い訳ではない。

スーパーでお茶を買うのは手軽であるし悪いことではないが、売られているお茶の
情報というのはパッケージの説明だけである。

これが「茶舗」ならどうであろうか。

「100gで800円の煎茶ならこんなどうでしょう?」なんてその場で淹れてくれたりして
味と香りを確かめて購入することが出来るし、そのお茶の美味しい淹れかた、生産地
なども事細かに教えてくれるであろう。

これが本当の「プレミアム」なのではないだろうか!

「茶舗で茶葉を購入する」という至極当然なことが非常に肝要なのだと改めて
気付かされる経験であった。

やはり時間が無くとも京都、或いは宇治に出向いてお気に入りの茶舗で茶葉を
購入したいものである。

「茶舗にて茶葉を購入することの楽しさ」についてはまた別の機会に触れたいと
思うが、一体全体この長々とした駄文を誰が読むのだろうかと考えつつあうあうして
筆を置きたい。














2015年6月4日木曜日

「半製品」としてのお茶

「お茶は、あくまで半製品なんです」

以前、京都の老舗のお茶屋さんに取材した時に聞いた言葉だ。
収穫したチャを製茶して、商品として販売しているものの、
最終的に「お茶」として完成させるのは、消費者であるという意味だ。

そのように捉えているからこそ、お茶の選び方から、淹れ方まで、
丁寧に伝えることを旨とするのだと、担当者は付け加えた。

ワインをはじめとする酒類や、珈琲、紅茶などに比べると、
日本茶には、保存方法や道具、淹れ方、飲み方を語る
一種の「うるさがた」が、目立たないように思う。
それは、お茶が他の飲み物よりも、人の日常に近く、深いところにあるから。
と、思いたいところだが、果たしてそうか?そのままで良いのか?

生産農家、製茶工場、小売店に敬意を示す…というのとは違う。
最終的な仕上げを行う消費者(←この言葉が不味いのか?)が、
「お茶」をめぐるサークルの一員であることを愉しめるようになることが、
好ましい状況だと思うですよねえ…という単なるつぶやき。

…に、終わらせるわけにはいかないなと。
先日、生産農家さんの新茶収穫の現場にお邪魔して感じた次第。


2015年3月22日日曜日

茶と猫と禅と

「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と云うがこれは本当であって
「昔の偉い人はええこと云うわ~」などと感心している場合ではない。
どうもここのところ思ったようにお茶が淹れられなくなり「あれ」とか「お?」とか
独り言を云いつつ上手いこといかんので茶腹になって胃が痛い。
この現象は季節の変わり目だからに相違ない。
と、一度はそう思ったのであるが開ききった茶葉に終わりを告げられてふと思った。
「茶と猫は似ている」
こちらから強引に歩み寄っても逃げてゆくばかりでちっとも仲良くなれん。
そんなことが続くと全て嫌になって自暴自棄になり「もうええわ…」云うて無視、或いは
歩み寄りをやめると知らぬうちに猫は傍で「にゃあ」と鳴いて咽喉をごろごろと鳴らしながら
転がり、茶は黄金色に輝いて素晴らしき香気を放ちつつ舌先に甘みを広げるのではないか。
「美味いお茶を淹れよう」と意気込んで淹れた時ほど自分は失敗しているように思うのだ。
ああだこうだと頭で考えて茶葉の量を計測、同じく湯の量、温度をも計測、蒸らしは何分何秒
なんて決めて淹れてもお茶の味というのは安定することはないのであり、必ずしも「正解」が
ある訳でもない。
「好きや好きやぁ!」と云い寄ってドン引きされたり「あ、猫や!」と目をギラつかせて
駆け寄ったりしても逃げられるだけであってどうも上手いこといかんのは明白なる事実であり、
それよりも考え事をしていたり、ぼぉーっとして、或いは何気に茶を淹れている時のほうが結果が
よい気がしてならない。
それではいかんのかもしれないが、よくよく考えるに「茶」というものはそないに
片意地を張って淹れるようなものではないのだと今更ながら気付かされた。
これは「禅」に通じる事柄なのではないかと少しく思案してみる。
禅では「頭で考える」=「雑念」であるからそれを断ち切るべきとあるが、
これは「ああしてやろう」とか「こう茶を淹れてやろう」という自分勝手な分別、
そういう執着のようなものを無くすこと「断ち切る」ことが肝要なのだという教え
なのではないだろうか。
ブルース・リーもこう云っていた「考えるな感じろ」と。
どうも話が変な方向に逸れたけれども、これはきっと春が近いからかもしれない。
梅は咲いたけど桜はまだかいな。

2015年1月20日火曜日

「点てる」ってなんだろ「点てる」ってなぁに?


先日、ぼーっとテレビを観ていると大人の休日がなんたらかんたらという番組を衛星まで使用して放送しており、その番組はある有名な女性モデルが台湾でなんたらかんたらという内容であって、自分は半分以上、或いはそれ以上に弛緩した状態でそれを眺めていると「中国茶の点てかた」というテロップが自分の眼に飛び込んできて何やら「違和感」を覚えた。

「中国茶の点てかたやと…」

これはどうも「このお茶は急須で淹れたものかペットボトルのものかどちらでしょーか?」と和菓子職人に問うが如く「なんか違うやろ…」とかなり弛緩した状態でも思ったのである。

「コーヒーをたてる」という表現は皆さんも耳にしたことがあると思いますが、これも実際はどうかと考えてみるに「違う」気がしていて、コーヒーもやはり「淹れる」というのが正解なのではないかと自分は思う。

しかし「コーヒーを立てる」或いは「点てる」というのはあながち間違いではないというか気分的には理解できるのであって、それはドリップの際に細かな泡が立つという「泡の存在」があるからではないだろうか。

「点てる」を考えるとこれは当然ながら「抹茶」である。

「お抹茶を点てます」これが正解であると思うが、「点てる」を調べてみると「点」には「いれる」とか「少し」という意味が含まれており少量のお茶を作るという意味で抹茶の場合はこれを「点茶」という。

だがこれに他のお茶も当てはめてしまうと少量だけ淹れるお茶の玉露、高級煎茶なども含まれてしまうのではないかと考えるとこれはおかしい気がする。

「玉露を点てます」或いは「煎茶を点てます」という表現は今まで聞いたことが一度もない。

こうして考えてみると「泡の存在」なんてものは全く関係がないのであって、抹茶を点てた際にできる「泡」とコーヒーをドリップする際の「泡」の感じが似ているというか、茶筅で立てるのとは全く違うけれども「コーヒーは点てる」でも許せる「感覚」が自分の中にはあることに気づいた。

ここで台湾の件に戻るのだが、番組で女性モデルが台湾の有名な「茶屋」に行って「中国茶の作法」を習うという内容で日本語のやたら上手な台湾のお茶の先生が登場し、中国茶(白茶)の楽しみ方、作法などを女性モデルに教えているのであるが、その中で先生は「お茶を点てる」とおもいっきり仰っておられた。

これには弛緩しきっておった自分も「何やと?」となったのは上でも書したけれども、ひょっとして中国では一般的にお茶を淹れることを「点てる」と表現するのであろうか。

新たな疑問が沸いて今度は脳が「弛緩」したのは云うまでもない。



2015年1月9日金曜日

笠置に入らずんばひげ茶を得ず。

昨年末、京都府相楽郡笠置町にある天然温泉施設「笠置いこいの館」へ兄家族に連れて行ってもらった際、ロビーで見慣れない「草」が透明のビニール袋に詰め込まれプラステック製の箱(給食パン入れのようなもの)に積まれて販売されていた。

その一つを手に取り眺めていると、それは完全に「アカン草」のような形状をしており、ビニール袋の口は輪ゴムで縛られているだけで「この辺りではタ○マは合法なのか」と思わせる風情であって「完全に乾燥タ○マやん」と思ったがここは日本であり、その様なものが合法な訳がないのであって、ビニール袋に張られたシールを読んでみるとそこには「ひげ茶、月ヶ瀬産」と書いてある。

笠木町付近には云わずと知れた「茶所」である和束町、南山城村があり、奈良県との県境ということもあって「月ヶ瀬産のひげ茶」も近くの生産農家の方から仕入れて売っているのであろうと推測される。

この「出物」と呼ばれる仕上げ茶にならないお茶の副産物でよく耳にするのが「かりがね茶」という茎茶と葉が粉状になった「粉茶」ですが、「ひげ茶」は店頭などでは一切見かけることはない「レア」なお茶であり、茎の皮を薄く剥いである部分がくるくると巻いた状態が特徴的な茶産地でしか購入できない物なので即購入、250グラムで\325である。安い。

恥ずかしながら自分は「ひげ茶」の存在は知っていたが実際に手にするのは初めてであったので興奮していたのか、ひげ茶の隣にあった和束産の番茶も購入してしまい茶の量が多いので兄家族と半分ずつシェア。

自宅でひげ茶を淹れてみた。

いろいろやってみるに、ひげ茶はかなりの量を急須に入れないとあまり出ないので、これでもかというぐらいに「ひげ」を急須に入れる。



水色はキレイな黄金色、味は少々の酸味を含んでおり香りは緑が強い感じでさっぱりしていて飲みやすい。お世辞にも「めちゃめちゃ美味しい」とはいえないかもしれないが、爽やかな酸味でスッキリしたい時、二日酔いの朝、食後のお茶等にはとても良いと思う。


お好きな方はこのひげ茶の茶殻でふりかけを作って食されているらしく「ほんまお茶は捨てるとこないな~」と再び関心。

なかなか「ひげ茶」を購入するのは難しいと思われるが「茶所」と呼ばれる地域の宿、温泉施設などに行く機会があれば探して購入してみてはいかがだろうか。



2014年9月18日木曜日

めぐりあい、お茶

「めぐりあい、お茶」云うてガンダムっぽいタイトルであるが自分が何故に日々、煎茶や玉露、番茶などを淹れて楽しむようになったかといえば、それは「めぐりあった」からであると思う。
そもそも自分の中での「お茶」というものは自分で淹れるようなものではなくて「おかん」が和菓子なんかを食す時に淹れていて「お菓子食べや」なんて呼び止められて、おかんがテレビを観ながら湯吞みに注いでくれるようなものであり、自分でお茶を淹れることはあってもそれは適当というか雑であって、土瓶などに適当な量の茶葉を入れて熱湯を満タンになるまで注ぎ、これまた「寿司屋かっ!」というような大きい湯飲みでもって熱々のお茶を啜り飲むというのが常であった。
「お茶」は好きであったが、どちらかといえば「コーヒー」を飲むことの方が多くペットボトルのお茶ですら購入することはあまりなかったと記憶している。
それがある日を境に自分のお茶に対する概念を根底から覆されることになってしまうのであるが、これは「登さん」との会話で幕を開けることになる。
自分がその頃ブログで「使っていた急須の蓋が落ちて割れた」みたいなことを書いていて、それを読んでくれたのか後日、話す機会があった際に「急須でお茶淹れるんや……」と登さんは不思議そうに云い「淹れますよ」と自分は答えたのだが「急須でお茶を淹れる」ということ事態が今は珍しいことだということを聞いて驚いたり「お茶の淹れかた」を教えてもらい、如何に自分が今まで適当に「お茶」を淹れていたかということに衝撃を受けた。
それから登さんとミウラ氏に会う機会があり「よかったらこれ淹れてみて」と頂いた宇治茶の「茶葉」の素晴らしさに感動して現在に至るのであるが、この「お茶」と「めぐりあい」が自分の人生をまた一つ豊かにしてくれたのであり本当に感謝している。
今では「お茶のない生活」というものは考えられず「お酒は我慢できるけどお茶は無理」であるし、出不精で低血圧、過敏性大腸症候群の自分には煎茶が「効く」のであり、もう生活に欠かすことはできない。
それに「お茶の楽しみ」というのは多岐にわたり、もちろん茶葉の産地であるとか製茶の方法、簡単に言えばお茶屋の数だけ様々な「味」がある訳であって、いろいろな茶屋をめぐるのも楽しいし「茶器」も様々なものがあって自分に合う「茶器」を探すのもよかろうと思う。
なにより家族や友人と茶菓子を食しながら淹れたり淹れてもらったりするお茶は格別なものであり本当に有意義な時間である。
「何事もめぐりあいというのは大切であるなぁ」と一人で感慨に耽る秋の夜。