2015年8月25日火曜日

夏と熱い茶と現代人

「お客様に熱いお茶を」なんて聞きますが昔は違った訳であり「何が違うねん」と云えば昔は
「冷めたお茶」をお客様に供するというのが本当の作法というか最上の「おもてなし」だったのである。

これを現代社会で実行すると上司に「大切なクライアントに冷めた茶を出すとは君は何を考えているのだ」
などと叱責、罵りなどの罵詈雑言を投げ掛けられたりするのであり、茶を供された方も「ぬるっ……」なんて
吐き捨てたように云って茶碗を置くのではないだろうか。

本来「冷めたお茶」を供されたということは、それだけ時間を掛けて淹れられたお茶ということであり
非常にありがたいことなのである。

しかしながらただ「冷ましたらええ」というものでもなく、品質の良い茶をゆっくり丁寧に淹れることが
肝要であることは云うまでもない。

高度経済成長なんてーのを経てこの日本のスピード社会と申しますか「何でも早い方がええやん」という
風潮或いは思い、若しくは「現代ならば当然」という考えが「おもてなし」というものを全くの逆さまに
してしまったのではないかと思う。

これは「ペットボトルのお茶」にも云えることであって、コンビニ、自動販売機などで手軽に買えてすぐに飲めるという利便性「スピード」並びに「お茶が売れるんやったらええやん」という茶業界の「なんやかんや」が、これまた本来の急須でお茶を淹れるという基本的な概念を現代人の頭脳から消失させる結果となり、またここでも「逆転現象」が起きているという由々しき事態にも拘らずそこに切迫感、焦りというものが微塵も感じられないというのは如何なものだろうか。

かなり脱線したのだが今回は「夏に熱いお茶ってどうよ」という問題である。

自分は暑い夏の日でも午前中などは熱いお茶を淹れることが多々あり煎茶や玉露は湯を冷まして淹れるので
問題はないのですが、ほうじ茶なんかは熱湯で淹れるので当たり前ですが夏は暑いし熱い。

「ほうじ茶」は香りを出す為に熱湯で淹れるのですが、夏場に熱湯で淹れたほうじ茶は正直に云って味も香りも
へったくれもなく「ただ熱い」ので結局はそれを少し冷まして飲む訳です。

冷ました湯で淹れてはほうじ茶の香りも出ませんし、冷たいほうじ茶を淹れたければ、まず熱湯で淹れてから
別容器に移して冷水などで荒熱を取ってから冷蔵庫へという手順になります。

「めんどくさいな」と思われるだろうが、ここでスピードと利便性だけを追い求めてはいけません。

「ほんなら熱いお茶を飲まんかったらええやん」と仰るが、夏場に冷たいものばかり体内に入れていると内臓は冷えるのであり「外は熱いけど中は冷たい」みたいな人間冷蔵庫状態は健康を害するのであって、極力は内臓を冷やさない方が良いと経験上感じているので、夏でも「熱いほうじ茶」や「雁ヶ音」などの茎茶を自分は好んで淹れるのである。

結局は何事も「頃合い」が肝要であるということで「熱過ぎる」のも「冷たすぎる」のも良ではなく
「丁度良い」温度、淹れ方や楽しみ方があるのだなぁと感じた次第である。

「はよお茶冷めへんかな~」とか呟いている自分もやはり現代の日本人なのだと痛感した
夏の終わりと台風と熱いほうじ茶。


2015年7月21日火曜日

「プレミアム」は本当にプレミアムなのか。

つい先日のことであるが、煎茶が切れたので購入せんければいかんと思いつつも
ウチの近所には気に入った茶舗は少なく、通販にするか京都に買いに出掛けるかと
思案した結果、京都に行く時間は無く、通販で購入しても2日は掛かるのであって、
どうも我慢が出来そうにない。

近所で「一番まとも」と云ったら御幣があるかもしれないが、その茶舗に行って
適当な煎茶をセレクトすればええかいなとも考えたが、どうも自分の中で納得が
いかない。

「何故に納得がいかない」のかは判然としないが、あまり好みでない煎茶に
「ええ値段」を支払いたくなかったし「適当な煎茶をセレクト」というワードが頭脳に
浮かんだことこそがどうも禍々しい。

他に淹れるお茶がない訳ではないのだから、ここは我慢と思いつつ悶々とした
心持ちで食材の買出しへ。

イ○ン・グループの所謂「スーパーマーケット」は近所に数多くあり、駐車場も完備
されているので自分は頻繁に利用する。

本当はウチから徒歩一分の「スーパー」で買い物すればいいのだけれども、ここの
従業員の客をナメた態度とレジ係りのパートのお姉さん方の茶髪率の高さ&死んだ
魚のような視線、或いは態度に自分の純情な感情は空回りして耐えることが出来ず
買い物に行く度に悔しい思いをして嗚咽が止まらない様なことがしばしばあり、嫌い
なのでわざわざ車でイ○ンまで買出しに行くのであって「ここはアメリカか……」
なんて思いつつも仕様がない。

そんなことはどうでもいいのだが、このイ○ン・グループのスーパーで
「一番摘みやぶきた煎茶」というのを発見した。

プレミアム・トップ・ヴァリューセレクトらしいこの煎茶のパッケージには
「日照時間が長く温暖な気候の鹿児島県南部のお茶です。うまみとコクあるやぶきた種の
一番茶を使用しました。甘みのある濃厚な渋みと香りが特徴です」とおもいっきり書かれている。

値段もそこそこええ値段であり100gで800円弱、ここで頭脳の天使が「購入するのは
やめなさい」と囁いたかと思いきや今度は「ユー買っちゃいなよ、我慢できねーんだろ」
なんてドS口調で悪魔が囁くもんだから抗いようもなく、買い物籠にその煎茶はスルスル
と沈んだ。

「煎茶飢餓状態」で帰宅。
早速、淹れるべくパッケージを開封するや否や驚いたのは甘くて香ばしい香り、
これはどこかで嗅いだことのある「茶」の香りである。

これまた驚いたのは茶葉も想像していた「ピンとした」ものではなく限りなく
「粉茶」に近いものであり、粉茶の中に良い茶葉が点在している状態であって
プレミアム感は無いに等しいが香りは良いと感じた。

「おいおいプレミアム・トップヴァリューセレクト!」と叫んだ声は往来にまで到達
していたに相違ないが、そんなことは気にせず自分はあうあうした。

あうあうしつつも「一番摘みやぶきた煎茶」を淹れてみる。

粉状の茶葉なので量に注意しつつ、冷ました湯を急須に注ぎ待つこと一分、
茶碗に注いで見ると黄色が少し強めの水色、香ばしく甘い香気と味、これは
所謂ところの「深蒸し煎茶」ではないか。

「一番摘みやぶきた深蒸し煎茶」ならば納得もするが「一番摘みやぶきた煎茶」
としてこれは販売されている。もやもやする。

しかし、さすが温暖で日照時間が長く肥沃な土地で育った鹿児島のお茶だけあって
美味しいのであるが、なんとなく腑に落ちないというか「もやもや感」だけが残って
またあうあうした。

ここからは単なる個人的な意見であるが、この「一番摘みやぶきた煎茶」は良い茶葉
を使用していると思われるが「茶がよく出る」ように深蒸しにしたことによって茶葉が
粉状になった或いは「粉状にした」のか、もっと穿ったものの見方をすれば、良い茶葉
の製造過程で残った「粉茶」に良い茶葉を心持ちブレンドして提供してるんちゃうんのん
とも受け取れるというか思ってしまうのが尋常なる消費者の気持ちではなかろうか。

そこまで考えへんか。

ぐだぐだと書したけれども、よくよく考えるに100g800円の茶葉をスーパーで購入する
ことに対して感じたことは「もったいないなぁ」ということ。

スーパーで売っているお茶が悪い訳ではない。

スーパーでお茶を買うのは手軽であるし悪いことではないが、売られているお茶の
情報というのはパッケージの説明だけである。

これが「茶舗」ならどうであろうか。

「100gで800円の煎茶ならこんなどうでしょう?」なんてその場で淹れてくれたりして
味と香りを確かめて購入することが出来るし、そのお茶の美味しい淹れかた、生産地
なども事細かに教えてくれるであろう。

これが本当の「プレミアム」なのではないだろうか!

「茶舗で茶葉を購入する」という至極当然なことが非常に肝要なのだと改めて
気付かされる経験であった。

やはり時間が無くとも京都、或いは宇治に出向いてお気に入りの茶舗で茶葉を
購入したいものである。

「茶舗にて茶葉を購入することの楽しさ」についてはまた別の機会に触れたいと
思うが、一体全体この長々とした駄文を誰が読むのだろうかと考えつつあうあうして
筆を置きたい。














2015年6月4日木曜日

「半製品」としてのお茶

「お茶は、あくまで半製品なんです」

以前、京都の老舗のお茶屋さんに取材した時に聞いた言葉だ。
収穫したチャを製茶して、商品として販売しているものの、
最終的に「お茶」として完成させるのは、消費者であるという意味だ。

そのように捉えているからこそ、お茶の選び方から、淹れ方まで、
丁寧に伝えることを旨とするのだと、担当者は付け加えた。

ワインをはじめとする酒類や、珈琲、紅茶などに比べると、
日本茶には、保存方法や道具、淹れ方、飲み方を語る
一種の「うるさがた」が、目立たないように思う。
それは、お茶が他の飲み物よりも、人の日常に近く、深いところにあるから。
と、思いたいところだが、果たしてそうか?そのままで良いのか?

生産農家、製茶工場、小売店に敬意を示す…というのとは違う。
最終的な仕上げを行う消費者(←この言葉が不味いのか?)が、
「お茶」をめぐるサークルの一員であることを愉しめるようになることが、
好ましい状況だと思うですよねえ…という単なるつぶやき。

…に、終わらせるわけにはいかないなと。
先日、生産農家さんの新茶収穫の現場にお邪魔して感じた次第。


2015年6月3日水曜日

新茶の時期の「収穫」

「茶畑に行かねば」…と思うようになったのは、いつの頃か。

ブログやSNSといったメディアが普及したことで、
小売店さんのみならず、茶農家さんの情報を知ることが出来るようになった。
が、その「情報」は、あくまで画像、動画、テキストに過ぎず、香りもなければ、温度もない。
お茶好きというならば、一度は生産の現場に足を運ばなければならない。

お茶に関する「情報」を「体験」によって得たいという欲求が
今シーズンの新茶の生育とシンクロするようにグングン高まっていたところ、
以前、このブログでご紹介させていただいた「森井ファーム」さんの茶園に行く機会を得た。
新茶の収穫が始まって間もない、4月29日のことであった。

「香味の良い良質な茶は、比較的冷涼な河川の上・中流域の
朝霧のたつような地域で生産される」…と言われているが、
森井ファームさんの茶畑も、そんな条件が揃う、京都府南部、木津川市加茂町にある。

平坦部よりやや高い、山間部の傾斜を活かした畑。
森井さんのブログやSNSのページで池があることは知っていたが、
五感で得る「景色」の情報は、格別だなと。
(当然、このブログでもすべて伝わるわけではない)



宇治茶農家・四代目のご主人と奥様。
畝を挟んで、可搬型の摘採機を支えながら、注意深く新芽を刈り取る。
時期によって、お手伝いを頼むものの、基本的な作業は、ご夫婦でされるとのこと。




加茂地区は、「かぶせ茶」の産地として知られる。

遮光率の高い資材を被せる、「被覆栽培」を行うと、
チャは、わずかな日光を効率良く吸収するために、葉の面積を早く拡大させようとする。
結果、葉の厚みは薄く、葉脈の分布は粗になり、柔らかい新芽が育つ。
チャの旨味成分であるテアニンは、日光を受けるとカテキンに変化するが、
遮光することで、変化は抑制され、テアニンの旨味が残る。

被覆の効果は、味の異なる「かぶせ茶」の生産のみならず、
防霜、摘採時期の調節など、複数の目的もあるとか。
限られた土地、労働力を有効活用するための知恵と言えるだろう。



新茶の収穫は、新葉が4~5枚程度開いてから。
実際に摘採するのは、「一芯三葉」と呼ばれる上の部分だけ。
理想は、あくまで手摘みとされているが、極めて効率が悪い。
では、機械による収穫が効率的かというと、「そんなに単純なことではない」と知った。

古葉や木茎が混じらないように、摘採する畝をキレイにする必要がある。
屋外なので、当然、風が吹けば、周辺の木々から葉が舞い落ちてくる。
じゃあ一気に刈れば良いと、作業を急ぐと粗くなる。

機械はあくまで道具。道具である以上、コツ、ワザ、経験が求められる。
この日、新茶の収穫を手伝いに行ったボクと息子、友人のナカヤマさんは、
森井夫妻の職人的作業に見惚れながら、畝を行ったり来たりしたのであった。



お手伝いの内容は、作業を進めるご夫婦の先を行き、
摘採箇所にある異物を取り除くことと、摘んだ葉の入った袋の運搬。
陽の当たらない場所に、積み重ねないようにやさしく置く。
ふわっと広がる摘みたての茶の香りを忘れることはないだろう。
(何度も袋の中に飛び込んでみたいと思ったが、耐えた)

















この日、収穫した茶葉は、324キロ。速やかに、隣町、和束町の製茶工場へ。
特別に何をしたというわけではなかったものの、実に感慨深かった。

























「どうか美味しいお茶となって、誰かの気持ちを潤しますように」
と、まるで茶農家さんの気分になって畑に戻ると、
森井さんのご家族、友人の皆さんがランチの用意を。
茶畑の中で、いただく食事は格別(それ以外の表現を思いつかない)。
御礼とばかりに、友人のナカヤマさんが、
前日に製茶したばかりという森井ファームさんの「新茶」を淹れて、

「うまい!」
「茶を淹れた人の腕?」
「いや、茶を作った人の腕でしょう!」
「では、その両方で!」

と、幸せなシークェンスの会話を(笑)

新茶の収穫時期にも関わらず、さまざまな「体験」をさせていただいた
森井ファームさんからのギフト3点
(以下、森井さんへのメッセージとして)

1、新茶のセット

森井さんのお茶は何度か買わせていただきましたが、
やはり今回の体験もあって、いつもに増して美味しく感じました。
「生産者の顔を見て買う」から、「生産者の仕事を見て買う」に
一歩ステージが上がったのでしょうか。


2、新茶の天ぷら

森井さんに「好きなだけ摘んで帰ってください」と言われて、
濡らしたキッチンペーパーと共に渡された袋に詰めた新芽。
茶の天ぷらがこんなに美味いものとは知りませんでした。

3、息子への言葉

我々が畑に着いた時、作業の合間、荷積みが終わってから、
製茶工場から戻った時、畑を離れる時と、
都度、お二人がかけて下さった「ありがとう」の言葉が、
息子には特別な響きとなって残ったようです。

成長していくうちに「ややこしい」時期を迎えることになるかと思いますが、
暮らしの中にお茶がある限り、体験させていただいたことは忘れないでしょう。
また機会があれば、お邪魔させていただきたいと思います。

ありがとうございました。


2015年3月22日日曜日

茶と猫と禅と

「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と云うがこれは本当であって
「昔の偉い人はええこと云うわ~」などと感心している場合ではない。
どうもここのところ思ったようにお茶が淹れられなくなり「あれ」とか「お?」とか
独り言を云いつつ上手いこといかんので茶腹になって胃が痛い。
この現象は季節の変わり目だからに相違ない。
と、一度はそう思ったのであるが開ききった茶葉に終わりを告げられてふと思った。
「茶と猫は似ている」
こちらから強引に歩み寄っても逃げてゆくばかりでちっとも仲良くなれん。
そんなことが続くと全て嫌になって自暴自棄になり「もうええわ…」云うて無視、或いは
歩み寄りをやめると知らぬうちに猫は傍で「にゃあ」と鳴いて咽喉をごろごろと鳴らしながら
転がり、茶は黄金色に輝いて素晴らしき香気を放ちつつ舌先に甘みを広げるのではないか。
「美味いお茶を淹れよう」と意気込んで淹れた時ほど自分は失敗しているように思うのだ。
ああだこうだと頭で考えて茶葉の量を計測、同じく湯の量、温度をも計測、蒸らしは何分何秒
なんて決めて淹れてもお茶の味というのは安定することはないのであり、必ずしも「正解」が
ある訳でもない。
「好きや好きやぁ!」と云い寄ってドン引きされたり「あ、猫や!」と目をギラつかせて
駆け寄ったりしても逃げられるだけであってどうも上手いこといかんのは明白なる事実であり、
それよりも考え事をしていたり、ぼぉーっとして、或いは何気に茶を淹れている時のほうが結果が
よい気がしてならない。
それではいかんのかもしれないが、よくよく考えるに「茶」というものはそないに
片意地を張って淹れるようなものではないのだと今更ながら気付かされた。
これは「禅」に通じる事柄なのではないかと少しく思案してみる。
禅では「頭で考える」=「雑念」であるからそれを断ち切るべきとあるが、
これは「ああしてやろう」とか「こう茶を淹れてやろう」という自分勝手な分別、
そういう執着のようなものを無くすこと「断ち切る」ことが肝要なのだという教え
なのではないだろうか。
ブルース・リーもこう云っていた「考えるな感じろ」と。
どうも話が変な方向に逸れたけれども、これはきっと春が近いからかもしれない。
梅は咲いたけど桜はまだかいな。

2015年2月8日日曜日

土曜日は市場へ出かけ…


…かぶせ茶と、ほうじ茶を買ってきた。
「市場」は、京都駅の近くにある梅小路公園で毎月第一土曜日に開かれる手作り市。

元々は、「素人さんが創った手づくりの作品を発表する場」として、
京都市在住の有志が始めたクラフト系の青空マーケットだったが、
回を重ねるうちに「手づくり」の解釈が広がり、
生産農家の方々も参加するイベントとなった模様。
(京都には、寺社仏閣の境内といった「ならではの空間」を使った市場が多い)

お目当ては、森井ファーム&森井長左衛門カフェさんのお茶。
以前、百貨店の前で出店されていた際に、たまたま通りがかって買い求めた
かぶせ茶と、ほうじ茶を再び味わいたいなと。


農家さんのお茶と、お茶屋さんのお茶の大きな違いは、「合組(ごうぐみ)」にある。

お茶屋さんは、お茶農家から仕入れた茶葉の特性を吟味して、
店で扱う銘柄に合った合組(ブレンド)を行い、年間を通して安定した茶の味を提供する。
その年の出来不出来や、畑による微妙な風味の違いも踏まえて、
顧客に同じクオリティの茶を提供するのだから、合組には非常に高い技術が求められる。
(複数の品種のブドウを「アッサンブラーシュ(組み合わせ)」するボルドーワインと似ている)

一方、お茶農家さんのお茶は、自分の畑で作った茶葉を製茶するので、
合組のような調整を行うことができず、味は茶の生産技術そのものに左右される。
(ワインで言うなら、単一品種で作るブルゴーニュに近いイメージか)

どちらが優れていると比べるものではない。
茶の味については好みがあり、要は好きか嫌いかでしかないからだ。

「生産農家さんの顔を見て、その方から茶を買う」という機会を愉しむ。
または、「今年のお茶はどんな味だろう?」と、もしかすると微妙に変化するかもしれない味に
胸を躍らせる…といったところだろうか。

「市場」が開かれる日に、別の用事が入ることがあるかもしれない。
天気が悪くて出かける気がしないということもあるかもしれない。
いつでも、確実に入手できるお茶屋さんと比べると、出会いにくいお茶かもしれない。
(もっとも、機会を逃さないためにも、ネットやFAXなどで注文を受ける農家さんがほとんどだが)

でも、と言うべきか、だからこそ、と言うべきか。

「市場」で出会う農家さんのお茶には「味がある」と思う。
ただ消費するだけでは詰まらない…ある「ひと手間」を楽しむことが、
お茶を味わうことではないかと思う今日この頃である。

…と、いうわけで、今日、市場で買った一口レモンケーキと
森井さんのところのほうじ茶という、ちょっと変わった組み合わせを試してみた。
次の「市場」に出かける日まで、たっぷりと楽しもう。


2015年2月4日水曜日

節分の福茶


大晦日や正月、あるいは節分といった季節の変わり目に、
無病息災を祈念して飲む縁起物、「福茶(ふくちゃ)」。

天暦5年(951年)、京の都で疫病が流行った時、
村上天皇から悪疫退散を命じられた六波羅密寺の空也上人が、
街頭で祈願しながら、台車に積んだ茶に梅干しを入れて振る舞ったところ沈静化した。
…という功徳にあやかり、宮中で元旦と節分に茶を服するようになった。
後に庶民が、その「皇服茶」、「王服茶」をならうようになったのが、
「大福茶」、「福茶」の始まりだとか。

「後に」というのが、具体的にいつの時代かは分からないが、
梅干しや昆布、豆(黒豆、炒り大豆)といった素材を入れるスタイルになったのは、
煎茶が生まれ、現代に近い茶が庶民に広まった江戸時代ではないか。

まめまめしく働くから、「豆」。
よろこぶにかけた「昆布」。
松竹梅のめでたさとかけて「梅」。

と、洒落が利いているあたり、何となくそうなのではないかと思う。

節分の「福茶」には、豆まき用の豆(福豆)を吉数である「三」つ入れる。
いつ、どこで、誰が言い出したのかは分からないが、
「年齢の数(または、年齢+1個)の豆を食べるのと同じだけ効果がある」
と、(ある意味、経済的な?)都合の良い効用を加えた人は、えらいなあと思う。

「福茶」の味わい方も地方によって色々あるようで、
静岡県・袋井市には、三粒の豆を茶釜に入れて、
家族のうち杓でこの豆をすくった人が、幸運に恵まれるといった
「遊び」のような云われがあるそうな。

炒り豆、梅干し、昆布はおろか、お茶すら置いていないという家庭は多いだろうが、
季節の変わり目に、どこかイベントめいた趣きを持たせた茶の習慣は、
どうにか残していけたらなあと感じた次第。

2015年2月3日火曜日

「玉露のうまい淹れ方」コンテスト/レポート


先日、2月1日(日)に開催された全国「玉露のうまい淹れ方」コンテスト京都府予選。

京都では初めての予選会ということもあり、
30名という参加者が多いのか少ないのか分からないが、
友人のナカヤマ氏と、私、嫁、息子の4人のうち、
「誰かが決勝まで勝ち上がればいいなあ」なんて、
ちらっとでも想像したことが恥ずかしくなるほどの精鋭ぞろいであった。

予選で使用したのは、100g/5000円の京田辺産の玉露。
直前に、大会要項と共にサンプルが送られてきたが、質の良い茶葉であった。
「茶葉を惜しまず、湯を惜しむ」と言われるように、
玉露特有の旨味を損なわずに「必要最低限の湯」で淹れることができるかがポイント。
…と、意識したつもりではいたのだけれど、
茶業を営むプロとおぼしき、他の参加者の皆さんほど思い切れなかった。

下の写真の左から二番目が私が淹れたもの。三番目が決勝に残った方のもの。
茶葉のエキスを絞り出したことが、澄んだ水色からも良く分かる。
同じ茶葉、同じ時間でも、その手順や分量で全く違った味になる。
正直、ここまで違いが出るものとは思わなかった…いやはや、勉強になった。


予選グループを勝ち上がった6名による決勝戦。
(友人のナカヤマ氏と、私、嫁、息子の4人は、当然?勝ち上がれなかった)

急須と湯冷ましといった茶器だけを使うのではなく、温度計や秤を使う選手もいた。
アジアン・ティーを淹れるものと思われるガラスの茶器を使われる方もいた。
その手順、その違いを見るだけでも参加した価値があったなあと。

優勝されたのは、宇治市の日本茶インストラクターの方。
所作に迷いがなく、優雅な手つきに見えた。普段から相当淹れておられるのだろう。

コンテストでの勝ち負けはさておき、「うわあ、ええ感じに淹れるなあ」と、
見る人に印象を与えられるレベルを目指そうと感じた次第。



いやあ、玉露って、本当にいいもんですねえ。

2015年1月30日金曜日

「玉露のうまい淹れ方」コンテスト/前々夜


全国「玉露のうまい淹れ方」コンテストの京都府予選会が京田辺市で行われる――

パートナーが見つけた記事で初めてその大会の存在を知った。
今回で「第9回」となる全国大会の本選は福岡市・八女市で行われてきた。

八女市と言えば、全国茶品評会の「玉露の部 産地賞」のタイトルホルダーであり、
数々の高級緑茶を生み出した本場・宇治の中でも、玉露を名産品とする
京田辺市からすると、最大のライバルと言える産地である。
京都府予選会は、「敵地に刺客を送り込む」ためのものと言って差し支えないだろう。

…と、面白がって特に迷うことなくエントリーをしたのだが、
いよいよ明後日が本番という今となって、なかなか難しいコンテストだな…と感じている。

事務局から送られてきた【競技要領】によると…

Ⅰ 対戦方法

①対戦方法は、予選は1班5人による一人勝ち抜き方法とし、各選手は審査用と選手本人用の試飲分を含む6人分の玉露を淹れていただきます。


②1回戦は、6班30名が競技を行います。


③決勝は、各班から1名の上位選手により、専門の審査員5人分の玉露を淹れていただきます。(選手本人の試飲分も淹れてもかまいません。合計6人分)


何が難しいかと言うと、「6人分」という量である。
普通の煎茶よりも少ないとは言え、なかなかの分量だ。
普段、せいぜい淹れても一度に2~3名分しか淹れたことがない。
「競技」で使用する急須や湯冷ましは「各選手」が持ち込むことになっている。
要は、普段使っている急須は容量が足りないのではないかという問題である。

京都予選会に出場する方は、このレギュレーションをどう受け止めているのだろう?
もっとも、いくつも茶器を持っているプロの方や、それに近い愛好家の方も多いだろう。

…勝ち負けのことを考えてどうする。
30名もの「選手」が、それぞれの道具を使って、真剣に玉露と向き合うのだ。
愉しくないわけがない。

別のグループの5名の選手が淹れた玉露を味わい、その優劣をつける審査が楽しみだ。
一体、どんな一日になるのだろうか?詳しいレポートは、また後日。


2015年1月20日火曜日

「点てる」ってなんだろ「点てる」ってなぁに?


先日、ぼーっとテレビを観ていると大人の休日がなんたらかんたらという番組を衛星まで使用して放送しており、その番組はある有名な女性モデルが台湾でなんたらかんたらという内容であって、自分は半分以上、或いはそれ以上に弛緩した状態でそれを眺めていると「中国茶の点てかた」というテロップが自分の眼に飛び込んできて何やら「違和感」を覚えた。

「中国茶の点てかたやと…」

これはどうも「このお茶は急須で淹れたものかペットボトルのものかどちらでしょーか?」と和菓子職人に問うが如く「なんか違うやろ…」とかなり弛緩した状態でも思ったのである。

「コーヒーをたてる」という表現は皆さんも耳にしたことがあると思いますが、これも実際はどうかと考えてみるに「違う」気がしていて、コーヒーもやはり「淹れる」というのが正解なのではないかと自分は思う。

しかし「コーヒーを立てる」或いは「点てる」というのはあながち間違いではないというか気分的には理解できるのであって、それはドリップの際に細かな泡が立つという「泡の存在」があるからではないだろうか。

「点てる」を考えるとこれは当然ながら「抹茶」である。

「お抹茶を点てます」これが正解であると思うが、「点てる」を調べてみると「点」には「いれる」とか「少し」という意味が含まれており少量のお茶を作るという意味で抹茶の場合はこれを「点茶」という。

だがこれに他のお茶も当てはめてしまうと少量だけ淹れるお茶の玉露、高級煎茶なども含まれてしまうのではないかと考えるとこれはおかしい気がする。

「玉露を点てます」或いは「煎茶を点てます」という表現は今まで聞いたことが一度もない。

こうして考えてみると「泡の存在」なんてものは全く関係がないのであって、抹茶を点てた際にできる「泡」とコーヒーをドリップする際の「泡」の感じが似ているというか、茶筅で立てるのとは全く違うけれども「コーヒーは点てる」でも許せる「感覚」が自分の中にはあることに気づいた。

ここで台湾の件に戻るのだが、番組で女性モデルが台湾の有名な「茶屋」に行って「中国茶の作法」を習うという内容で日本語のやたら上手な台湾のお茶の先生が登場し、中国茶(白茶)の楽しみ方、作法などを女性モデルに教えているのであるが、その中で先生は「お茶を点てる」とおもいっきり仰っておられた。

これには弛緩しきっておった自分も「何やと?」となったのは上でも書したけれども、ひょっとして中国では一般的にお茶を淹れることを「点てる」と表現するのであろうか。

新たな疑問が沸いて今度は脳が「弛緩」したのは云うまでもない。



2015年1月9日金曜日

笠置に入らずんばひげ茶を得ず。

昨年末、京都府相楽郡笠置町にある天然温泉施設「笠置いこいの館」へ兄家族に連れて行ってもらった際、ロビーで見慣れない「草」が透明のビニール袋に詰め込まれプラステック製の箱(給食パン入れのようなもの)に積まれて販売されていた。

その一つを手に取り眺めていると、それは完全に「アカン草」のような形状をしており、ビニール袋の口は輪ゴムで縛られているだけで「この辺りではタ○マは合法なのか」と思わせる風情であって「完全に乾燥タ○マやん」と思ったがここは日本であり、その様なものが合法な訳がないのであって、ビニール袋に張られたシールを読んでみるとそこには「ひげ茶、月ヶ瀬産」と書いてある。

笠木町付近には云わずと知れた「茶所」である和束町、南山城村があり、奈良県との県境ということもあって「月ヶ瀬産のひげ茶」も近くの生産農家の方から仕入れて売っているのであろうと推測される。

この「出物」と呼ばれる仕上げ茶にならないお茶の副産物でよく耳にするのが「かりがね茶」という茎茶と葉が粉状になった「粉茶」ですが、「ひげ茶」は店頭などでは一切見かけることはない「レア」なお茶であり、茎の皮を薄く剥いである部分がくるくると巻いた状態が特徴的な茶産地でしか購入できない物なので即購入、250グラムで\325である。安い。

恥ずかしながら自分は「ひげ茶」の存在は知っていたが実際に手にするのは初めてであったので興奮していたのか、ひげ茶の隣にあった和束産の番茶も購入してしまい茶の量が多いので兄家族と半分ずつシェア。

自宅でひげ茶を淹れてみた。

いろいろやってみるに、ひげ茶はかなりの量を急須に入れないとあまり出ないので、これでもかというぐらいに「ひげ」を急須に入れる。



水色はキレイな黄金色、味は少々の酸味を含んでおり香りは緑が強い感じでさっぱりしていて飲みやすい。お世辞にも「めちゃめちゃ美味しい」とはいえないかもしれないが、爽やかな酸味でスッキリしたい時、二日酔いの朝、食後のお茶等にはとても良いと思う。


お好きな方はこのひげ茶の茶殻でふりかけを作って食されているらしく「ほんまお茶は捨てるとこないな~」と再び関心。

なかなか「ひげ茶」を購入するのは難しいと思われるが「茶所」と呼ばれる地域の宿、温泉施設などに行く機会があれば探して購入してみてはいかがだろうか。